誠実とは

 誠実さとはなんだろう

 ニュアンスとしては誰もがなんとなくは分かる概念だと思う。各々細かい違いはあれど、そう大きく差異の生じるようなものではない

 辞書によれば「相手を思いやり、心を傾け相手に寄り添い、私利私欲ではなく真心をもって物事や人に相対すること」だという。真摯に真剣に邪心なく起こす行動であれば、それは誠実なのだろう

 

 ではその認識を以って、誠実とは本当に何なのかを問う

 

 例えば浮気をした者が妻に自身の罪を告白することは、誠実なのか

 このケースではそもそも浮気が誠実ではない行為という問題もある。相手や恋愛というものに誠実な者は浮気なんてしないだろう。つまり、その後何をしようとも誠実でないという論は正しいように見える

 だがコトは起こってしまったのだ。総和でマイナスなのは仕方ないとして、以降の誠実という点で論議を進めるのであれば、隠し続けるよりは良いと判断する者も、隠し通すべきだとする者もいると思う

 浮気をした側からすれば告白こそが誠実だとする者が多い。隠し通すことは誰でも出来るが、隠さず打ち明ける行為には勇気が必要だ。故に、勇気を必要とする行為こそ誠実であろうという論が一般的か

 浮気をされた側からすれば一生隠し通すのが誠実だという意見が多い。告白は楽になる行為だろと。許されようとしてるんじゃないと。やってしまったんだからこっちのことを考えて、墓まで持っていく覚悟で死ぬ気で隠せという思考展開が多い

 要は労力の問題だ。隠さず罪を洗いざらい告白し罰を求める行為を誠実とするか、罪悪感を抱えながら隠し通す行為を誠実とするかは、その行いのどちらが当人にとっての「罰」、つまり重労働なのかという点に論点が持っていかれ、その重さを以って誠実か否かとなる場合が多い。

 

 結局のところ互いの間での合意があればどの行為も誠実となり得るのだろうが、誠実さを求める場というのはこの互いでの合意というものを満たしづらいのが実情である。誠実という言葉は含みが非常に多いため、非常に議論しがいがあるように思う

 

 例えば富を弱者に施す行為は誠実なのかどうか

 これは良い行いか悪い行いか、という視点での論争もあると思う。魚ではなく魚の採り方を教えろという言葉もあるし、弱者からすれば施しはプラスなのだから別に良いだろうという答えもあることだし

 論題も悪い。道端のホームレスに投げ銭をするのはどうか。アフリカの貧しい民のための募金はどうか。富裕層が孤児院に寄付をするのかどうか。想像できる状況が散らかりすぎていて少し答えに窮する

 が、それら全ての行為と「施し」として包括し、誠実かどうかを是か否かで論ずるのであれば色々と答えは出ると思う。上から下へモノを与える行為は自然の摂理であり当然是であるとか。混じりけのない感情での施しなどなく、そこには自己満足や何らかの副次的な感情が入るので否であるとか。おそらく、個々人が人間を善性と捉えるか悪性と捉えるかで答えは別れるような気がする

 

 もう幾つか例を論っても良いと思うが、言わんとしてることが分かると思う

 

 誠実さという言葉で思い浮かべる意味合いや、想起される言動は、おそらく人によって大きな違いはないだろう。拾った財布を交番に届ける行為や何の益もない奉仕活動を、僕らは皆一様に誠実さの象徴としている

 けれど、状況によって答えは左右される。誰もが同じ誠実というものを心の底から追い求めているはずなのに、可笑しな話だ。誰もが似たような行動を誠実さだと認識しているのにも関わらず、置かれる状況によって答えが変わる。これは当たり前と言えば当たり前でもあるのだが、だからこそ誠実さという言葉は都合よく使われながらも、皆が皆同じ誠実さの下に生きているわけではないのだと思う

 

 自分が損をするような行為を誠実さとするならば、それは全体から見れば偽称の行為であり誠実さとは言い難い

 全体の模範とすべき法に則った正しき行いを誠実さとするならば、その法に敗れ損を被ったものの誠実さとは相対する

 嘘偽りなく告解することを誠実さとするならば、その告解によって見たくもなかった悲劇を見ることになった者は、誠実さによって傷付けられ

 人を騙して仮初めの幸福を守ろうとした者の誠実さは、虚偽と欺瞞という観点から誠実さの土俵に上がれない

 

 誠実さとは綺麗で美しく、幸せを思わせるような言葉だが

 結局のところ正義や利益というような言葉と同じように、捏ね繰り回され良いように弄ばれるだけの、しょーもない概念なのかもしれない