出来る人には出来ない人の気持ちが分からない

 タイトル通り

 一度は耳にしたことのあるフレーズだと思う。何でできないの、何でやらないの。そういった心無い言葉にこっちだって必死にやってんだよ、と返す側の言葉である

 返す側の言葉って断定の仕方もよくないか。出来る側の発言に対して外部の誰かが言う場合だってある。要はこの言葉は「出来る側の人間を詰る言葉」だ。出来る人間の人格や性格、その態度や言葉遣いに対して用いられたり、その場を形容する時に使われる言葉である

 

 僕は出来ない側の立場に立つことが多い

 

 色々とやってきたけれど、劣る側の人間だ。学力も運動もそうだったし、特定科目やアルバイトやゲームでもそうだった。パッと見で分かるような才能なんてものはなかったし、人一倍時間をかけてきたように思う

 ただ、出来る側の立場にも何度か立ったことがある。下には下がいる。もっと言えば塾講師の時、生徒は基本的に何も知らないわけだからこの立場に立つことになる。そして彼らが「数学分かんない」と言ってきた時、僕は「分かる」のだ。当たり前の話だが

 

 そして塾講の時に分かったのだが、出来る人は出来ない人の気持ちが分からないのではない

 出来ない人がなぜ出来るまで努力をしないのかが理解できないのだと思う

 

 塾講の時、僕は非常に落ちこぼれだった

 大学生になったばかりのガキがいきなり中高生相手に黒板の前に立って授業をするのだ。塾講バイトは数あれど、基本的にぶっつけ本番である。勿論どういう風に教えるかなんてものはこれまでの学生生活でずっと手本を見てきただろうし、先輩塾講師からもアドバイスを貰ったり、彼らの授業を何度も見学してから行う。しかし初めてな者は初めてなのだ

 

 最初の授業は今でも覚えている。本当に失敗した

 生徒の質問にさっと答えられないし、説明は長くてまどろっこしかったし、何より楽しんで勉強してもらうという教育の基礎がなっていなかった

 猛省だけでは足りないぐらいの失態を犯した。金を払い我が子を塾に通わせている親からすればもっと優れた講師をつけてくれと叫びたくなるだろうし、子供からすれば人気のあの先生が良かったなとなるはずだ。幸いにも彼らはとても優しかったが、一歩違えば本部に連絡がいき速攻お叱りが飛んできていてもおかしくなかった

 

 だから僕はやった

 ひたすら真似をした。先輩講師の授業に見学に行って、丸パクリレベルの授業運びにした

 ノートには板書と説明を書いておき、それだけで授業が行えるような形にした

 一人で空き教室で通して授業をやり、どこに何分かかってどれだけのペース配分が良いのかを試した

 友達に遊びがてら付き合ってもらって、分かりやすい説明を考えた

 

 全部やった。録画を取って通しで見れるような、それなりの形にできるところまで

 その努力がある程度の自信になり、一ヶ月もする頃にはそれなりの授業を行えるようになった。生徒の笑顔も増えたし、僕だって授業を苦痛だと思わなくなった。お喋りをする余裕が生まれるほどのラインにまでは回復した

 

 その後も色々と頑張った

 バイト代以上のことをする気はなかった。でも塾講師はそれなりにお金を貰えていたから、僕もそれなりには費やした

 すると生徒の数字が上がりだす。僕の担当している教科が上がり、彼らの口からも苦手という単語が出なくなる

 勿論そんなに簡単にいく教室ばかりではなかった。けど、上がるのだ。他人の数字であっても僕が少し頑張るだけで、目に見えて数字は上がる。数字は良い。上達を感じさせてくれる。嘘を付かない結果がとても嬉しくて、僕は毎週の授業を考えるのが楽しくて仕方がなかった

 

 一方で、塾講バイトには出来ない奴もいた

 

 入った時はコミュニケーション能力に長け、素の学力も高く、顔もカッコいい男がいた。僕と同期で大学一年生の奴だった

 が、彼の担当したクラスの点数は伸びない。むしろ辞める生徒が続出してしまう。これは一時期問題というか塾講師の間で噂になり、本部長が様子見をしていたがついに呼び出してお叱りを与えた

 

 彼とは何度か塾講師で飲みに行く仲だった

 飲みの席ではバイトの話はなし、という暗黙の了解こそあったが、そいつは結構悩んでいた。なんか最近教室の居心地悪いんだよね。どうすればいいかな。そんな言葉を何度か聞くようにもなっていた

 僕も出来ない気持ちは痛いほど分かる。バイトが楽しくないのは本当に駄目だ。教師側が楽しめなければ生徒も楽しいはずがない。密度のある勉強の時間の基礎はモチベーションだ。生徒のやる気のためにも、こっちは熱意と誠意をもって楽しく授業をしてあげないといけない

 だから僕は、ちょっとだけアドバイスをした。僕はこうしてるよー、とか。先輩講師に聞いてみたらー、とか。くどくど言うのは僕の役割ではない。僕より優れた講師は他に沢山いるからだ

 

 そんな彼はお叱りを受けた次の日、辞めた

 彼の抜けた穴は僕が担当することになった。僕は穴のあいた少しまばらな教室をいきなり受け持つこととなり、四苦八苦しながら彼らの成績を向上させるべく努力することとなった。マジであの時の地獄の雰囲気は思い出したくない

 

 僕は、彼が分からない

 彼は出来ない人だった。そして、出来ないことを出来るところまで持っていこうとしなかったのだ

 いや、陰ではしていたのかもしれない。必死で努力した結果がアレだったのかもしれない。でも、それでも僕には彼が分からない

 彼は最終的には逃げたが、別に逃げることが悪だとも思わない。バイトなんだし辞めてしまえ、という気持ちは分かる。僕も塾講バイト以外で何度もその気持ちを味わった。彼にしてみれば辞めたくなるバイトが塾講バイトだったのだろう。一歩違えば僕と彼は違ったかもしれないぐらいには、彼の最後の行動には親近感が持てる

 

 が、僕は出来るようになるまでやる

 最低限見れるものにする。絶対だ。小学校の時入ってベンチスタートだったサッカーも、入って一日目で金的食らって逃げたくなった空手も、先生に苦笑いされた公文式も、一人だけ赤点だった化学も、死ぬほど訳が分からない授業、全くの別分野の資料を提出しろと言われた研究室での課題、上しかいないプログラミングコンテスト、高学歴で超絶イケメンしか集っていないプレゼンコンテスト。その全てで何とか形あるものを出し、戦える土俵にまで持っていった

 初めてなら分からないのは仕方がない。物覚えが悪くて分かり辛いのも仕方ない。向いてない、センスがない、それでも仕方ない。結果を出したいと思ってしまったのだから、そこに至るまでの様々な苦労はもう仕方がないのだ。なんとかするしかない

 僕は出来ないなら出来るまでやる。勿論そんなに上手くはない。けど、何としてでも自分だけは満足できるラインに物を持っていくべきだと思っている

 

 勿論、この思考を強要するわけじゃあない

 人は人それぞれ生き方考え方があるし、僕のこの思考も間違いかもしれない

 言ってしまえば僕のは根性論だ。もっと要領よく、万人が受け入れられる言葉が存在するかもしれない。だから、押し付けることはしない

 

 ただ、僕が思うに、

 出来る人には出来ない人の気持ちが分からない、という言葉は、弱者の傲慢だと思う

 出来る奴が正しい。出来ない奴はとにかくやれ、と言いたくなる

 人間慣れてしまえば何でもできるし、好き嫌いを抜きにすれば不可能なんてない。勿論極端に難しいものや、天性の才を要求されるものについては少し話は違うが、この世の大部分はやろうと思えばできるけど、やれるようになるまで何らかのコストがかかるものである

 

 そして出来ない人は、コストを払っていない

 そしてコストを払って出来るようになった人のことを、お前には俺の気持ちが分からない、などと諳んじる

 

 中々に酷い社会である

 僕は能力主義というか、優秀な人間を上に置いて物事を考える厭らしい性格をしているためこんな捻くれたことを考えるのかもしれないが、しかし出来ない奴から出る厭らしい本音というのは本当に身勝手で自己中心的で看過しがたい人間の汚点だと思う

 

 勿論、出来なくてもいい場面もあるし、やりたくないが優先される物事もある

 が、仕事や一共同体内においてこの言葉は本当に厭らしい。出来る人の努力を無視している。生まれてから今までに辿った道の中で、そこに至るまでに何か努力をしたのだ。だからそこにいるのだ。なのに何もしていないお前が囀るんじゃねえよって感じ

 

 

 

 などと、いきなり訳の分からない敵を作り出し文句を吐き散らすのには理由はあり

 現実にそういうことを言いだす奴が僕の身の回りに沸いたということです。あー本当に嫌い

 くだらないことに頭を悩ませている気がする。いや、悩んではないんだけど。なんだろうな。なんでこいつはこうなのだろうという侮蔑というか蔑視というか。どうしたって僕の悪い部分が、人を見下してしまう癖が出てしまいそうになる

 努力してくれ。頑張れば大体なんとかなる。そういう風に出来てる。そんな難しいことじゃねえんだそれ。頼むから一人でなんとかやってくれ。もう毎度毎度僕が付き添わなきゃいけないのはおかしいんだって。あーもーどうすりゃいいんだ。難しい